露地と漏路
先日、茶会に参加した。大寄せの茶会ではなく、懐石料理もふるまわれる本格的なものであった。細君が茶名を拝受し、それを祝う茶会である。参加しないわけにはいかない。例年、細君に請われるまま、初釜の茶会には参加させてもらっているが、懐石料理は初めての体験である。幸いにも細君のお茶の先生が、私のレベルを的確に判断し、「まんが茶会入門」という本を貸してくれたので、事前に作法などをチェックすることができた。格式高いお茶事に、漫画の知識で臨むのは如何なものかと、最初のページをめくる時、わずかに逡巡するも、その内容はかなり本格的なもので、私程度のものには十分すぎるものであった。名著であると断言する。茶道に興味があって、最低限の作法くらいは身に着けたいと思う御仁にはお勧めである。そして、まかり間違えば失礼になりかねないと危惧される状況をあえて無視し(まったくもって失礼とは感じていないのであるが)、私に「まんが茶会入門」を貸していただいた、お茶の先生のご機転と些末なことに拘らないおおらかな優しさに感謝する次第である。さて、二十分前までには来るようにと、細君にくぎをさされていたのだが、豊崎トライアスロンで道が混んでいる。やっと十分前に到着すると、ほぼ人数は揃っており、私がしんがり? いきなりの失態で冷や汗。和装の麗人が六、七人、膝を突き合わせるように座っているその中に、私は大きな体をできるだけ小さく縮めて端坐し、愛想のない愛想笑いでその場を取り繕うが、場違いな感じはいかんともし難い。確かに居心地は悪いのだが、その居心地の悪さを楽しんでいる自分がいて、不思議と癒されたりする。腰掛待合から露地を通り、身を屈めてにじり口を抜ける。亭主が配した心遣いのすべてを見落とさないようにと自らに言い聞かせながら、まんがで得た知識を総動員する。閑寂とした茶室は緊張と寛ぎを同時にもたらしてくれる。いつも何かに追われ、やり残したことに心痛め、やるべきことに頭を悩ませる日々の暮らしから解放され、「浮世を離れて遠くへ来た」。安直に考えるとそうなるのだが、そうではない。私はむしろ、「やっと帰ってきた」と感じるのだ。一休宗純の歌に「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」というのがある。有漏路とは仏語で煩悩に穢れた迷いの世界、つまり現世のことで、無漏路とは煩悩のない清浄な悟りの境地のことである。生まれる前は無漏路にいたのであろう、そして生まれて後は、有漏路を彷徨い齢を重ねてきた。でもそれは仏にとっては一刹那。無漏路に帰る一休みに過ぎない。一休の「無漏路へ帰る」に通じる心地が茶室にはあるのではないだろうか。
茶室に至る路には、飛石、蹲踞、腰掛、石燈籠などが配され、その庭のことを露地という。漏路と露地。概念も語源も違うが、語感のみでなくその真髄におけるかかわりを論じる研究者もいる。利休は南方録において、「露地はただ浮世の外の道なるに心の塵をなどちらすらん」と説く。清浄なる空間である茶室に入るには、浮世の煩悩をふるい落とし、無垢なる境地になる必要がある。そのために露地が必要なのだと。露地を通り茶室のにじり口をくぐると、処世で身に纏ったすべてのものは、濾過、淘汰され、最後に残るものを身に着けて、淡き水の如し交わりを結ぶ。「淡交」、言うにはやさしいが、行うことは難しい。茶道の奥深さに、目の覚める思いがする。
「まんが茶会入門」の熟読のおかげと、右隣りの正客のフォローもあって、懐石料理、濃茶、薄茶も心行くまで堪能させていただいた。茶人としての細君の門出を祝うことができた喜びと、格式の高い茶会を乗り切った安堵感を抱いて茶室を出る。先ほどふるい落とした浮世の塵をひとつひとつ拾い集めながら、露地を抜けて有漏路に戻ってゆく。身に纏う煩悩の重さは相変わらずだが、足取りが少し軽くなった気がした。
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